第3回「<純な心>に目覚める」(2020/1/11)

第3回真我の会~活動報告


真我の会の第3回目の集いが、新年1月11日に開催されました。
今回は9名(男性6名、女性3名)の方が参加されました。
第3回目のテーマは「<純な心>に目覚める」で、水谷啓二先生の文章を中心に学びました。

<純な心>は森田先生が使われた独特の言葉ですが、森田療法においては神経症の治
癒の過程で、この<純な心>に目覚めることがとりわけ大切であるとされています。
水谷啓二先生は、「生活の発見誌」(2018年3月号)の中で、「森田療法の眼目は、
もろもろの悪智を去って、私どもに生まれつき備わっている『純な感じ』が活発に働
くようにすることである」、と言われています。
そして、具体的に、誤って皿を割った時に、「惜しいことをした、何とかならないも
のか」と感じるのが<純な感じ>であり、「何といって言いわけしようか」とか「こ
れからは、皿の取り扱いに注意しよう」とか考えるのが、悪智によって<純な心>の
発現が妨げられている、ということだと水谷先生は説明されています。
                                     
このあと、私(野田)自身の体験を交えて、<純な心>とは「愛」や「思いやり」の
心のことであるとお話しました。
<純な心>は学習によって理解することはできません。<純な心>とは、心の知的な
働きではなく、深い感情に根差した心であり、体験がない方に<純な心>を言葉で説
明して理解してもらおうと思っても限界があります。

しかし、<純な心>が理解できなくても、<純な心>の体験につながる生き方をする
ことはできます。
その生き方の手本を示しているのが、神経症にとらわれないで生きている普通の人た
ちです。
普通の人たちは皆、「純な心」で生きています。人の悲しみに同情し、人が喜べば自
分も喜び、素直な気持ちのままに生きています。でも、その人に、「あなたは純な心
で生きていますね」と言っても、何のことかわからないでしょう。その人はただ当た
り前に生きているだけだからです。普通の人たちにとって、「純な心」という言葉は
今さら必要ありません。
神経症にとらわれている人も同じです。<純な心>という言葉を理解することが大事
なのではなく、<純な心>を「生きる」ことが大事なのです。

神経症の人は、症状にとらわれて、人の悲しみに同情できなくなり、人が喜んでいて
も同じように喜べなくなり、素直な人間らしい気持ちで生きることを忘れてしまった
人たちです。
ですから、症状から解放されるためには、一生懸命に人の悲しみや喜びを自分の悲し
みや喜びとして感じられるようになるために、自分の症状のことだけを考えるのでは
なく、人が話すことに真摯に耳を傾け、人の気持ちを受け止めようとする努力を重ね
ていくことです。(これが<純な心>につながる生き方ということになります。)
そのような努力を重ねていくうちに、やがて症状へのとらわれから心が離れて、普通
の人のように人の気持ちに共感できる心の働きが戻っていくようになります。この時
にはじめて、「純な心」がどのような心なのかがわかります。

今回の集いでは、同じ発見誌に水谷先生が書かれた「思想よりまず体験を」という一
文も皆さんで読みました。
その中で水谷先生は、「古くは森田先生をめぐる形外会、新しくは啓心会のような神
経質者の集まりでは、何よりも実行を教えなければならない」、と指摘されています。
「神経質者は、言葉による思考の面ではかなり発達している」と水谷先生が指摘して
いるように、神経質者の観念的な傾向、「思考」「考えること」が神経症のとらわれ
に強く関係しており、従って、「理論学習」によって言葉を覚えてその通りに実行し
ようとして、ますますとらわれを強めてしまうことになりがちです。

私は大学生の時に、鈴木知準先生のところで入院森田療法を受けました。2か月間、
ただただ体を動かして作業をする日々でした。この間に、理論的なことを先生から教
えてもらうことは一切ありませんでした。
しかし、退院して日常生活に戻り、いつの間にか、それまで内側に向いていた心が外
に向くようになった自分に気付きました。この体験を通して、「理論よりも実行が大
切である」ということを私は身をもって知ることができました。

「理論」とは万人の体験の共通する部分だけを抽象したものであり、私たちがそれぞ
れの生活の現場で体験している現実世界とは異質なものです。
私たちが神経症のとらわれから抜け出すために大切なことは、私たちひとり一人が体
験している現実世界、すなわち「実行」から入る、ということです。
しかし、「実行」といっても、ただやみくもに体を動かせばいいわけではありません。
私たちひとり一人が、それぞれの生活の現場(職場や家庭)で、具体的にどのように
心を働かせ、そしてどのように行動したらいいのかを学び、一人一人のいわば「実践
プログラム」をつくる場こそが発見会の中の集談会の役割であると私は考えています。
ぜひ、新たに立ち上がった真我の会が、私たちひとり一人の「実行」「実践」を後押
しできる集いとなることを願うものです。