第5回「あるがままに生きる」(2020/3/14)

第5回真我の会~活動報告



第5回真我の会を3月14日(土)に開催しました。参加者は4名でした。
今回は、森田療法の治療の根本である「あるがまま」ということについて学びまし
た。

対人恐怖の人は、自分の対人恐怖の症状(たとえば「どもり」や「赤面」、「人前
で緊張してうまく喋れない」など)が人よりも劣っている部分のように思え、それ
を「あってはいけないもの」と考えて取り除こうとします。しかし、それができな
いで苦しみます。
「あるがまま」とは、「症状を排除しようとせず、そのまま受け入れる」ことです。
しかし、それは意志の力を働かせて「症状を受け入れようとする」ことではありま
せん。
では、「症状を受け入れる」とはどのようなことなのか。それを私(野田)の体験
からお話しさせて頂きました。

あるがままの体験
私はあるプロジェクトの仕事で、リーダーをまかせられたことがありました。もとも
と、リーダーの資質が自分にはないと考えていましたが、「メンバー一人ひとりの気
持ちを汲み取って、メンバーの誰もが『やってよかった』と思ってもらえることだっ
たら自分にもできるのではないか」と考えてリーダーを引き受けました。
しかし、ある日のプロジェクト会議で、今後の計画を立てている時に、私の段取りが
悪く、他のメンバーがリーダーである私を差し置いてさっさと決めてしまうという出
来事がありました。
その日の仕事が終わった帰り道、自転車をこぎながらしきりに涙がこみ上げてきまし
た。
話し合いの進行もままならず、右往左往してリーダーの役が務まらなかった自分に、
「ああ、やっぱり自分にはリーダーはできないんだ」と絶望的な気持ちになり、自分
の愚かさが身に沁みました。そして、「もう失うものはない。この愚かな自分のまま
で生きていきたい。このままでいいんだ。このままの自分でよかったんだ」 そのよ
うな気持ちが私の中に訪れました。
そうしたら、他の人の中にある、私と同じように自分ではどうすることもできない苦
しみやつらさが感じられてきました。「愚かさが身に染みたからこそ人の気持ちがわ
かる、その方の痛みがわかるんだ」 自他の区別が氷解して、「全てがこのままでよ
かったんだ」と感じられるもう一つの世界があることを、私はこの時に体験しました。
あとになってから私は、この時の体験こそ森田療法の「あるがまま」だったことに気
付きました。

仏弟子チューラ・パンタカの話
私はその日、自宅に戻ってから、大好きだった「チューラ・パンタカの話」を読み返
しました。
チューラ・パンタカは仏陀の弟子で、自分の名前も覚えることができないほどの愚か
な弟子として知られています。道を求める心は人一倍強かったのですが、仏陀から聞
いた教えをまとめた短い詩を、他の弟子たちは次々にそらんじていくのに、パンタカ
はいっこうに覚えることができませんでした。仲間からは馬鹿にされ、嘲笑を浴びせ
られていました。
パンタカにはとても賢い兄がいましたが、あまりにも情けない弟を見て、「家に帰
れ」と諭し、パンタカはそれを聞くしかありませんでした。
実は、パンタカは過去世において、非常に知に長けた者でした。しかし、その知が邪
魔をして悟りに至ることができませんでした。法が頭での理解にとどまり、心深くに
受納することができませんでした。その後悔ゆえに、今生では知を閉じて愚かに生ま
れてきたのです。
パンタカは、自分ではどうすることもできない愚かさを嘆き悲しみ、門の外に佇んで
いました。
それを見た仏陀は、パンタカに、「自分の愚かさを知っているおまえは愚かではな
い」と慰めました。そして、パンタカに一枚の白い布を渡して、両手に挟んでさすり
ながら、「塵(ちり)よなくなれ、垢(あか)よなくなれ」と唱え続けるようにパン
タカを導きました。パンタカは意味もわからないままに仏陀の言葉に従いました。
やがてパンタカは、どんなに手を洗っても白いに布がすぐに汚れてしまうことに気付
きます。そして、愚かであったがゆえに、塵や垢が白い布を汚す悲しさに思わず胸を
詰まらせました。
仏陀はパンタカに、「本当に悲しいのは、白い布が汚れることではなく、自分の心が
汚れることなのだ」とおっしゃいました。その時、塵と垢の痛みと悲しみがパンタカ
の頭にではなく身に沁みます。そして、沁みてきたものは痛いのに、言いようのない
歓びを感じたのです。
続いて仏陀は、他の弟子の履(はき)物を白い布で拭くことで、その感謝の思いをお
返しするように促しました。パンタカは、歓びをもって毎日一人一人の履物を拭き浄
めました。
あまり一心に拭くので、中には「もうこれ以上しないでくれ」という者も現われまし
た。自分の中にある傲慢さを見ざるを得なくなったのです。
そしてついに、一枚の布が与えられてから数年の後に、「塵よなくなれ、垢よなくな
れ」という仏陀の言葉の深意をパンタカは悟った、という話です。(以上は高橋佳子
著『人間の絆(自業編)』より)

チューラ・パンタカが教える「あるがまま」
真我の会では、このチューラ・パンタカの話を私の「あるがまま」の体験と重ね合せ
ながら、参加者の皆さんと分かち合いました。
このチューラ・パンタカの話は、私たち対人恐怖に、「あるがままに生きる」ことの
大切さを教えてくれているように思います。
自分ではどうすることもできない愚かさを抱えたパンタカは、自分ではどうすること
もできない症状を抱えて苦しんでいる私たち自身です。
他の人が覚えられる詩を自分だけが覚えることができない。劣等感に打ちひしがれた
パンタカの姿が目に浮かんできます。
そのパンタカにお釈迦様は、「愚かなままのお前でいいのだ。愚かであることを自分
でよくわかっているお前は、決して愚かではないのだよ」と言ってパンタカを慰めま
した。愚かな自分をそのまま受け入れてくれる存在に出会い、パンタカは癒されます。
その姿は、対人恐怖で一人で苦しんでいた私たちが、集談会に参加して仲間に話をき
いてもらい、そのままの自分を受け止めてもらって癒される姿とどこか重なります。
仏陀はパンタカに、「塵よなくなれ、垢よなくなれ」と唱えながら白い布を両手でさ
するように言い、パンタカは意味がわからないまま仏陀の言葉に従いました。それは
ちょうど、症状を持ったまま、森田の教えに素直に従って、日々目的本位に行動する
私たちのようです。
やがてパンタカは、どんなに手を洗っても白い布がすぐに汚れてしまうことに気付き
ます。そして、塵と垢の痛みと悲しみが身に染みるように感じられます。
もし、パンタカが前世のように知に長けた者であったら、塵や垢を見てそのように感
じることはできなかったでしょう。パンタカが今生愚かに生まれ、自らが痛みや悲し
みを背負って生きてきたからこそ、塵や垢が我が身に重なるように感じられてきたの
です。
パンタカはその時思ったでしょう。「転生かけて私はこのような体験をしたかったの
だ」と。そして、その願いが果たされた歓びと、愚かに生まれたからこそ、その願い
を果たすことができたことへの感謝の思いがパンタカに訪れます。
このパンタカの話から私たちは大切なことを学ぶことができます。
私たちは、「愚かさ」=「劣っている」と普通に考えています。全て物事を一定の価
値尺度で見てしまいます。対人恐怖の根っこにも、そのような「ものの見方」があり
ます。「できる(優れている)」「できない(劣っている)」という価値尺度で自分
自身を見て、「できない自分はダメだ」と考えて劣等感を抱いているのが対人恐怖だ
からです。
しかし、本当はそのような「比較相対」を超えたところに真実はあることをパンタカ
の話は教えています。全てのものは、一定の価値尺度で測る前の、その「あるがま
ま」の姿こそが尊い、ということです。
「愚かさ」とパンタカの中に眠っていた「仏性の光」は実は一つのものであったと思
います。
パンタカは、誰よりも自分を低くすることができる陰徳の持ち主であったと言われて
います。「愚か」であったからこそ、誰よりも自分を低くすることができました。
「愚かさ」という煩悩と、パンタカの中に眠る菩提は分かち難く結びついています。
それが「煩悩即菩提」の意味であり、だからこそ「愚かさ」を否定したり排斥するの
ではなく、その「あるがまま」を大切に受け止めなければならないのです。頭を垂れ
て弟子の一人一人の履物を毎日拭き浄めるパンタカこそ、「愚かさ」という煩悩を菩
提に転じて生きる姿に他なりません。
どもったり、赤面したり、人前で緊張してうまくしゃべることができなかったり、こ
れら対人恐怖の症状もまた、パンタカの「愚かさ」と同じように、私たちの中に眠っ
ている「菩提の光」が姿を変えて現れているものです。その症状を「あるがまま」に
受け入れて歩んだ時に、その症状はそのまま多くの人を救う「菩提の光」に転じてい
くのです。